センス・オブ・ワンダー

レイチェル・カーソン著  上遠 恵子 訳

私が活動を始めた頃、子どもたちに私たちが残せるものってなんだろう?っていつも悩んでいました。高度経済成長が終わり、便利な生活になれ、人や地域や自然と関わりを持たなくても生きていける社会が加速し、グローバル化がますます進む中、人間の精神はそれと正比例するかのように不安感が増しています。その不安感を少なくし、安定した心で日々過ごせる子どもたちを育むために、今できることの1つがプレーパーク活動だと思っています。そしてそれは「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性」を育むことだと思っています。レイチェル・カーソンが書いた「センス・オブ・ワンダー」の一節には下記のように書かれています.

 子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になる前に澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。

もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない<センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性>を授けてほしいとたのむでしょう。 この感性は、やがて大人になるとやってくる怠慢と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。(中略)

「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。
子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます。消化する能力がまだそなわっていない子どもに、事実をうのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような道を切りひらいてやることのほうがどんなにたいせつであるかわかりません。

 

遊び場で子どもたちと関われば関わるほど、この言葉が心にしみてきます。そしてその子どもたちが 成長していく姿に確信を持ち、今の活動に繋がっています。

レイチェル・カーソンのこと

アメリカの海洋生物学者で作家。1907年、アメリカ ペンシルベニア州スプリングデールに生まれる。文学少女で作家を夢見ていたが、ペンシルベニア女子大学時代「生物学」に魅せられ生物学者を志す。
ジョンズ・ホプキンス大学大学院で動物発生学で修士号取得。アメリカ連邦漁業局・魚類野性生物局の公務員として海洋生物学に深くかかわる。

著作として、1941年「潮風の下で」、1951年「われらをめぐる海」、1955年「海辺」を出版。海の3部作と呼ばれいずれもベストセラー。

また1962年出版の「沈黙の春」は、殺虫剤などの「合成化学物質」の無分別な大量散布(使用)は、生態系を乱し生物環境の大規模な破壊をもたらし、それは人間の生命にも関わることになると警告し社会に大きなインパクトを与えた。
問題の重大さはケネディ大統領を動かし、大統領科学諮問委員会の答申は「沈黙の春」の正当性を認めるものだった。この本によって世界は環境問題に眼を開かされた。

また、1965年没後に出版された「センス・オブ・ワンダー」は、幼少時から自然の不思議さ・素晴らしさに触れることの大切さを説き、自然環境教育のバイブルとなる。

「沈黙の春」出版のわずか2年後、1964年春、癌にて永眠した。

なかったことにする?!津田中問題のその後と私の考え

津田中の体罰事件から早1ヶ月以上が経とうとしている。
あの緊急保護者会から未だに1枚も手紙が来ないし、説明会もない。

ちょっとありえないと怒りすら感じる日々を送っている。

12月に開催した緊急保護者会の時には、詳しい状況は分かり次第連絡するということだったし、その時の緊急保護者会の議事録は全保護者に配布するという約束もしていたのに、約束は守られていない。

私自身もこの状態ではどうしても納得がいかないので、先日教頭先生に状況を聞きに行って来たのですが・・・結局私の疑問はますます膨れ上がるばかりだった。

①この体罰問題が傷害事件として警察により取り扱われている場合、今後裁判等も考えられるので、詳しい事は話せないという一貫した学校側の対応に疑問?
②それではなぜ緊急保護者会を開き、今後状況が分かり次第お知らせすると言ったのか?議事録を出すといったのか?という疑問???

こうした学校側の対応は、虚偽行為には当たらないのか?

子どもたちに嘘をつかずに誠実な対応を日々指導している立場の先生がなぜこうした問題が起こると大きな壁を作り、虚偽の仮面を被って保護者に対し防衛対策を取ろうとするのか?

地域と学校と行政はツナガって、みんなで子育てを応援していく社会を作る必要性を松山市の子育て施策にもちゃんと謳われているわけで、それなのに大きな壁を作ってしまっては何も解決しない。

学校は何を守っているのだろうか?

こうした状況下の学校の対応に関して、もしかしたら全国的なマニュアルがあって、それに応じて学校側は対応するように言われているのかもしれないが、だとすると最近よくニュースに流れている先生の不祥事事件を起こした学校側の対応として全てこうした対応がなされているというのか?

私としては腑に落ちなかった。

守るのは子どもたちの人権じゃないのか?

もうひとつ納得できないこと・・・

先生と話していて私が一番悔しかったことは、「子どもたちは静かな環境で勉強がしたいんです。中学3年生は受験が控えています。今回のことは早く忘れたいと思っている子どもが多いんです。」という言葉だった。

保護者の中にもそうした考えの人が多いことも踏まえ、先生が言われたことだと思うのですが、私の胸は張り裂けそうな憤りを感じずにはいられなかった。

被害を受けた子どども、そうでない子どもたちもみんな津田中の仲間じゃないのか?
みんなで一緒に切磋琢磨して日々学び、日々遊び、共に成長していく喜びを分かち合ってきた仲間ではないのか?

仲間が苦しんできているのに、どうして「忘れたい」なんて思えるのか?そのことが不思議だし、悲しかった。

何のために部活をやっているのか?
何のために地域の子どもたちと一緒の学びの場があるのか?
何のために地域の人と関わる行事をたくさん行ってきているのか?

それは成績が良い人が立派で、成績の悪い人がもう少し頑張れと格差を付ける競争社会を育てる為ではないはずだ!

みんなが協力しながら成長して、成績とか運動能力とかだけでなく、友達を思いやる気持ちがスゴイ子や、お友達のお話を丁寧に聞いてあげる能力がスゴイ子や、誰にでも笑顔で接してくれる天使の心を持つ子、宇宙の話、鳥の話、魚の釣り方、車の事、建物の不思議やドラえもんの凄さとかを話すのが大好きな子とか、子どもそれぞれが持っているスゴイところを認めあいながら、社会のことを知り、未来のことを考え、愛媛の未来を担う人材が育つために学んでいるのではないのか?

だったら、大切な仲間が苦しんでるんだから、みんなでどうしたらいいのか考えていくのが普通の事じゃないのか?

「他人なんて関係ない!自分さえよければいい!」という考えの子どもも親も増えていることは分かっている。

でも学校教育がその流れに乗ってしまっては、その先生を尊敬し真面目に教育を受けようとする子どもたちの心が路頭に迷ってしまう。

指導者は確実に光の見える未来に向かって子どもたちを導いていく使命があるから、指導者になっているのだと私は信じているから、私たちは子どもたちを学校へ行かせている。

安定した職業を求めて先生になる方もいるだろうけど、ただそれだけでなれる仕事ではないと思う。
たぶん使命を持って頑張っている先生の方が多いと思うし、問題のある先生は少ないと感じている。

だから決して悲観してこのブログを書いているわけではない。
ただ、今のこの状況が普通にならない事を願って書いているのです。

ゆっくりいこうよ~

我が家の中2の娘の日々の時間はほとんどが学校です。

夜は部活、土日もほぼ終日部活。これでいいのかと悩んでしまいます。

学校というのは本来勉強をするところです。
スポーツの専門校とか音楽の専門学校に来ているのなら仕方がないと思うのですが、普通の中学生で、なぜここまで熱血で部活をするのか?私にはよくわかりません。

私が通っていた愛知県の一宮市というところは野球で甲子園に行くという発想がほとんどありませんでした。ほかの部活でも頑張るけど、基本は体力アップだったり、仲間との団結力みたいなものを身につけるためです。愛知県で甲子園に行くのは私立の学校(愛工大名電・中京高校等)で、中学時代にスポーツ推薦で引き抜かれた面々が揃っているので、他の高校にほぼ勝ち目はないという悲しい現実があります。だから公立でも甲子園に行っちゃう愛媛はちょっと愛知とは考え方が違うのかもしれませんが・・・(^_^;)

公立高校でも、私立でも、誰にでもチャンスが残されているというところは凄いと思います。

でも私としては家の掃除や夕食作りのお手伝いなどもして欲しいし、これから一人暮らしをしても困らないレベルまでにはいろいろと教えたいこともあるのですが、それが全くできないのは困りものです。

その上、時間に余裕がないから帰ってきてからの自由時間はほぼ自分の好きなアーティストの歌を聞いてストレス発散!

中2ってそんなものだと言われればそうなのですが、もう少し人生について考える時間だったり、学校以外の興味のあるイベントや人に出会う時間があってもいいんじゃないかと思うのです。

大人になれば確かにできるけど、好奇心旺盛な中学生だから体験してほしいこともいろいろあるし、知っていてほしいこともいろいろある。ただ学校の勉強ができて、部活を頑張っていれば良い子だという風潮は変えていかなければいけないと思っています。

中学で立派な成績とったり、部活で全国大会行っても、その子のその後の人生にどんな良い影響があるというのだろうか?良い方向へ行く子もいれば、そのために転落を味わう子もいる。

せっかく中学という学びの時間を3年も頂いているのだから、その子にとってこれから知っておかなければいけないことを丁寧に伝えていく作業をしていく必要があると考えています。

焦ることではないし、比べる必要もない。

子どもたちはみんな違うし、みんないろいろな才能を秘めているのです。

中学の3年間だけではなくて、その後もずっと人間は学び続けなければいけないのです。

時にはゆっくり進む時もあっていいと思います。休む時も必要です。

頑張り続けることだけが正解ではないのです。

その子の未来を見据えて、丁寧に関わっていけば、必ず前が見えてくると信じています。

感謝を忘れなければ・・・

時給自足が当たり前の時代から、国内食料自給率40%の時代へ・・・

愛媛県で受け継がれてきた秋祭り、だんじり、亥の子というのは、自分たちが育てている食物と自然との関わりが密接に影響していた時代に、自然がおかしくなると、自分たちの生活に直接影響を及ぼしていたから、1年無事に過ごせたならば、感謝の思いを村全体で空の上の神、海にいる神、土の神、太陽に宿る神、すべての神様に必死で体で表現していたんだと思う。

そんな大人の姿を見て育った子どもたちは、神の存在を当たり前に受け入れて、日々無事に過ごせることを当たり前に感謝できる環境があったんだと思う。

でも、今の子どもたちにはそんな環境はない。

親が自然に対する感謝の気持ちをどう子どもに伝えるのかは、家庭ごとに違っている。

お父さんがサラリーマンであれば、必死に働いてくれている父親に感謝の言葉をいつもかけている母親のそばで育てば、「父親」に対する感謝の気持ちが育つ。

親が、山や海に連れて行ってくれて、その山の季節ごとの表情、その山の中で生きる村人との語らいの中で、その人々の様子から、自然に感謝する心が大切だということが伝わるかもしれない。

でも、どうだろうか?

1年を通じて「土」に触らず、「川」の流れを見ずに、「満点の星空」を眺めることもなく、ただ、テレビから流れる映像と、ネットの世界で生きたならば・・・どこで自然に対する感謝の心を育てることができるのか?

教育現場では今、「道徳」教育に力を入れているという。
机の上で、子どもたちは言葉を通じて感謝することの大切さを学んでいる。

中学校に行くと、部活動中の子どもたちが必ず「こんにちは」と声を掛けてくれる。小学校へ行くと、やはりみんな「こんにちは」とあいさつしてくれる。

でも、その言葉が私には「温かい言葉」とは感じないことが多くなっている。「言葉」と「心」というのは本当はツナガっていなくちゃいけないと思う。

社会に出れば社交辞令も必要にはなるし、要領も良くなくちゃ生きていけない。

それを学校でも学ばなきゃいけないことはよくわかるけど、「人を思いやる温かい言葉」も同時に学ぶべきではないだろうか?

温かい言葉というのは「ありがとう」「こんにちは」「すごいね」「だいすき」という肯定的な言葉だけではない。

誰かが苦しんでいたり、悩んでいる時に、一緒に考えて、先生に「これはおかしい!」と抗議をすることも「温かい言葉」の時もあるし、いじめっ子に「やめなよ!」と怒ることだって「温かい言葉」」だと思う。

平凡に過ぎゆく生温かい社会の流れに、疑問を感じても抗議しない若者が増えている。抗議すると平穏な日々がなくなることが恐いのだと思うけど、それでいいのか?

福島第一原発の爆発から、放射能の恐ろしさを肌で感じた市民が伊方原発の再稼働に反対する抗議をしている。これも「温かい言葉」であると私は感じている。

愛媛の未来を必死で守るための言葉であり、愛媛の自然に感謝しているから出る言葉だと思う。

自然を甘く見ると、本当に罰が当たる時が来る。石鎚山が松山から台風、寒波も守ってくれているからといって、すべてを守ってくれるわけではない。拝み宗教で安心感を得ても、神様にはお見通しだと思う。

子どもたちにそうした感謝の心の在り方をどう伝えていけばいいのか?難しい問題だ!

哲学・宗教学・心理学・天文学・・・学べば学ぶほどその神髄が見えてくる。

文部科学省もたぶん必死に考えて、あの道徳の教科書を作ったんだと思う。

だったら、私たちも協力しようじゃないか!

いろいろな人が子どもたちに関わって、人間として生きるってこと、そしてどうしたら幸せに生きれるのか!?悩みながら歩んできた大人たちがその軌跡を子どもたちに伝えたなたば、きっと子どもたちにも少しずつかもしれないけど、その道しるべとなるキーワードが見えてくるはず!

自然に感謝!
親に感謝!
地域の人たちに感謝!
友人に感謝!
子どもに勉強を教えてくれる先生にも感謝!

でも、納得してない事、疑問に思うこと、分からないことは言葉で話そうよ!
言いたいことをがまんして、苦しくなって、あきらめて、世の中を悲観して、感謝することを忘れてしまってはいけませんよ!

まず相談!!信頼できる仲間を少しずつ増やして、楽しく生きよう!

津田中問題!!

娘が通う学校で、全国的なニュースになる体罰問題が起きたことについて、昨年からいろいろ考えていました。

このまま一人の先生が起訴されて、学校を去ったら問題は解決するのでしょうか?

あの先生だけの問題なのでしょうか?

保護者の中には早く静かになって普通の学校生活を子どもたちに送らせてあげたいという人と、このまま問題棚上げしていいの?と疑問を持っている人と意見が二つに分かれています。

学校の対応は私からすればひどい状態だと言うしかありません。緊急保護者会が開かれて、校長先生が謝って、後は何も説明がなく、その後も娘からは1枚も手紙がない状態です。

体罰ははたして林先生だけだったのか?
教育委員会として体罰の概念はどう判断されているのか?

それから、この問題と不登校生が増えていることとの関係性は?
不良が少ないこの学校ですが、以前は本当に多かった!それはスポーツなどの部活動の活性化によって減っているというけれど、その分指導が厳しくなって、その反発で裏でいじめや、先生に対する態度に反発的なことを起こす子どもが増えてきているのではないのか?

学校になじめない子、家庭環境に問題があって学校に行けない子などは本来ならば別の教室や保健室などでの登校の柔軟性を持たせることが求められているけれど、その雰囲気がどこまで子どもに寄り添う形で出来ているのか?

部活動で頑張っている子どもが増えれば、学校としては評価は高くなる。でも、それは学校という枠の中で得意分野がある一部の子どもたちにすぎない。中学校というのは義務教育です。すべての子どもたちが意欲を持って学べる環境を作るのが学校です。そのことが前提となった教育がなされてきたのか?

学校内部の状況は子どもたちから聞こえてくる声でしか判断することができない。でも、その声に「変だ!」と気づく親は意外にも少ないのです。

今回のように顔にあざを残す体罰、トイレの中に閉じ込めるという異常な行動でもなけば、「変だ!」と思わない親が多いように感じてきました。

そして今でも、愛をもって「体罰」をしてくれている先生に感謝をする親は多い気がします。

「ちょっとぐらい叩かないと、やんちゃな男の子たちは言うことを聞かない。クラスをまとめることなどできない。」と言い切る人もいます。

でも、私はやっぱりそうは思いません。
どんな理由があろうとも叩いて言うことを聞かせるというのは反対です。

私自身だけでも頭の中には聞きたいことがいっぱいだし、できることなら娘が通う学校が、楽しい雰囲気で、一人一人が助け合いながら、日々を暮らしてほしいと願っています。

その為のまず第1歩は話し合いです。山ほどのモンスターを前に学校は話し合いなど持てないと思うでしょうが、それでもすべてを受け止めて、みんなで学校を良くするために話し合いをやり続ける必要があると思っています。

とにかく良いことも悪い事もすべて出し切らないと、次のステップにはいけない状態まで来ていると思っています。

本音でブログ書きます!!

どういったらいいのだろうか?
記事を書きたいけれど、あまりにいろいろなことがあってまとまらない。

どうしたら住みよい社会になるのだろうか?
どうしたら安心して子どもを学校に任せることができるのか?

私はこのブログでは自分の本音をできる限りぶつけてきた。

でも、社会の中ではなぜか「建前」を前面に出し、本音がなかなか言えない。

と、いうか本音で学校にぶつかったら私は「モンスター」だと判断されて,おそらく上手に対応されて何も変わらない事を知っているから、本音が言えない。

でもどんな問題だって本音で真剣にぶつかることができなければ、結局同じことを繰り返すだけである。

それは分かっているのに・・・

社会が希薄化すればするほど、本音で話し合ってぶつかるメンドさをどこかで避けようとする傾向が強くなるのかもしれない。

それで生きていけるし、問題など何も起きないから・・・

でも、やっぱり本音で再度ブログを書きはじめようと思う。

山形県東根市で開催される子どものための行政NPO協働推進フォーラム

10年ほど前から山形県東根市は「子育てするなら東根市」を目標に、市民からの声に耳を傾け、いろいろな協働の可能性を見出している。

安倍政権となり国はやっと「地域創生」を柱に掲げはじめたが、その前からこうした地域の過疎化や少子高齢化を止めるための施策に正面から取り組み、手腕を発揮し始めている地域が増えてきている。

雇用や観光ばかりに力を入れすぎると「子育て」というものはどうしても後回しになってします。

「子育てするなら愛媛県」「子育てするなら松山市」と、堂々と胸を張って他県の友人に言いたいけれど、今はまだこの地域にはそこまでの基盤はできていないと感じてきた。

でも、いつか我が娘や息子がココに移住を決めた時、堂々と「住むなら最高」、「子育てするなら最高の環境」であると言いたい。

今回はどうしても東北の今を知りたくて、東根まで行くことにしたけれど、なかなかそこまで足を運ぶことって出来ない人が多いと思う。

でも、そうしたところへ行くと、地域の子どもたちの育つ環境を良くしたいと必死で日々奮闘している仲間に出会うことができる。

日本全国いろいろな地域で頑張っている人たちと出会うたびに、そうした溢れるばかりの内なる想いに私も触発されてきたし、今度もそんな影響を受け続けながら進もうと思う。

 

ボール転倒訴訟判決に関して思うこと

子供の蹴ったボールで男性転倒、死亡…親の監督責任めぐり最高裁で弁論へ

産経新聞 平成27年3月19日

小学校の校庭から蹴り出されたサッカーボールをよけようとして転倒した後に死亡した男性の遺族が、ボールを蹴った当時小学生の元少年(23)の両親に損害賠償を求めた訴訟の上告審弁論が19日、最高裁第1小法廷(山浦善樹裁判長)であり、判決期日を4月9日に指定した。最高裁では慣例として、2審の結論を変更する際に弁論が開かれることから、両親の監督責任を認めて賠償を命じた2審判決が見直される可能性がある。
2審が事故と死亡の因果関係を認めた点に争いはなく、元少年の両親に民法で規定される監督責任違反があったかが争点。

弁論で両親側は「一般的な家庭と同程度に危険な遊びをしないよう指導するなど監督義務を果たしていた。2審判決は誤りだ」と主張。男性側は「両親には周囲に危険を及ばさないように遊ぶよう少年を指導する義務があった」と反論している。

2審判決によると、愛媛県今治市で平成16年2月、バイクを運転していた当時80代の男性が、校庭から転がり出たサッカーボールを避けようとして転倒、足を骨折。直後に痴呆の症状が出て、事故から約1年半後に男性は肺炎で死亡した。男性の遺族が約5千万円の賠償を求め提訴し、1審大阪地裁は元少年の過失を認めた上で監督者の両親に責任があるとして約1500万円の賠償を命じた。2審大阪高裁も、減額したものの両親の監督責任を認めて約1100万円の支払いを命じた。

こんな裁判が愛媛県今治市で起きている。

「一般的な家庭と同程度に危険な遊びをしないよう指導するなど監督義務を果たしていた。2審判決は誤りだ」と主張する両親側と、「両親には周囲に危険を及ばさないように遊ぶよう少年を指導する義務があった」と反論する男性側との裁判。

この裁判の結果は、今後の日本の子どもたちの遊び場環境に大きな影響を及ぼすと予想され、私自身はこの裁判に関わることはできない部外者ではあるけれど、やはり気になって見守ってきた。

ボールを蹴った子の学校の校庭の様子や、遊んでいた状況、子どもたちの人間関係、学校の先生たちの日頃の指導方法、当日の見守り状況、グラウンドのサッカーをするための環境整備、その日の天気や風のありなし、子どもの当日の心境、故意なのか偶然なのか、それともまた違う要因があったのかもしれない・・・。

この記事だけでは真実は見えてこないけど、できれば子どもたちがのびのびと遊べる社会を維持できない時代にはしたくない。「校庭でのボール遊び禁止」とか「空き地や公園でのボール遊び禁止」を義務ずければ、子どもも親も「日常生活の基本前提」として「ボール遊び」は不可能な世の中になる。

「そんな時代になってるなんて信じれられない!」という声も良く聞くけれど、すでに松山市のほとんどの公園ではボール遊びは禁止だし、空き地や道路、駐車場などでも当然遊んではいけないことになっている。

それでも、どうしてもボールで遊びたいと思う子どもたちはどの地域にもいて、「ココなら大丈夫かな?」と思うところを探して子どもなりに周りを気にしつつ遊んでいる。公園でも、基本的にはダメだけど、地域の人が見守ってくれて、親も地域の人と関わりながら、人に迷惑をかけないで穏やかにボール遊びを楽しむ公園も松山にはある。

「ボール遊び禁止」という選択肢は行政が市民からの苦情を受けてやむおえず選択した「手段」である。

行政が行う「禁止」という手段は最終的なもので、本来は地域の中で解決するべき問題だったんだと思う。地域の関わりが希薄化し、「子どもが遊ぶ」というごく日常的なことが成り立たなくなってきている昨今、そのことに危機感を感じない人もまだまだ多い。

「地域の子どもたちを地域で見守り育てる」という意識が薄れれば薄れるほど、子育ては苦しくなってくる。

その為に保護者はできる範囲でいいので地域に関わらないといけないし、いろいろな人と交流もしていく必要がある。でも、もうすでに子育てに苦しみ、離婚や生活困窮状態に陥っている人にはそこまで要望はできない。できないけれど子どもは地域で遊んでいる。

家庭の状況や生きてきた過程はみんな違うわけなので、子どもたちも一人一人問題は違うし、求めてくるものも違ってくる。そうした子どもひとりひとりの状況を考慮しながら地域の大人が子どもを見守るのはけっこう難しい事だと思う。

だから、やっぱりプレーリーダー的な人は地域にいてほしい。いないと苦しんでいる子どもを救うことは難しいんだと思う。

だからと言って、お給料をもらって雇われたプレーリーダーにすべてを委ねてしまうと、何も変わらない。子育てしながら子どもがのびのびと外遊びができる親側のスキルも少し学ぶ必要があるんだと思う。

例えば今回のサッカーの場合

サッカーをしたくてしたくて仕方がない小学5年生の男の子グループがいたとして、貴方ならどう対処しますか?
①子どもに任せる。
②サッカースクールに入れる。

ほとんどのお母さんがこの2択の中から選ぶんだけど、もう一つ

③子どもと一緒にサッカーをする又は子どもたちがサッカーをしている姿を見守り、いろいろな想定の中で自分に危害が加わる可能性のあること、また地域や他の人に危害が加わる可能性のある行動をその都度確認しながら子どもに伝える作業(叱るのではなく、一緒に考えながら遊ぶ)が必要になってくる。

昔はこんなことを親がしなくても地域の子どもたちがお互いに注意し合っていたのかもしれないが、今はこれをしないと子どもの遊び環境はもっと脅かされることになる。
高学年になるまでずっと見守る必要はないが、せめて3年生までは見守ってあげてほしい。

しかし、多くの子どもたちが放課後学童クラブに通っているので、親に見守られることなく遊びを確立している。子どもによっては「遊び」は危ないという感覚の子もいれば、「自由な時間」と考える子もいる。

いろいろな人との関わりを持たずに「遊び」を理解すると偏った考えになる傾向性を感じてきた。

どれほどの親が子どもの遊ぶ姿を確認しながら子育てしているのかわからないが、私が活動する中では、小学生の半数以上の親が子どもの日常の遊びを見ていないのが現状ではないかと感じてきた。

安全に遊ぶ場所が少なくなってきた現代においては、子どもの遊びを見守る大人は絶対に必要だ。子どもが遊ぶ中で危ないことや、失敗した時の謝り方、仲間との関わり方などを伝える大人が必要だ。地域に根差したプレーパークが継続的に運営できれば、そうしたスキルをお兄ちゃん達から教えてもらう地域環境も整う。

地道に活動してきた地域と、そうでない地域の格差も近い将来、必ず現れてくる。

今回の裁判で苦しんできたお父さん、お母さん、当事者のことも考えるととても辛い。こんな裁判がもう起きないようにするために、どうしたらいいのか。

未来を見据えた、支援の在り方をもっともっと考えていきたいと思う。

私の思い・・・地域活動を活性化させるには!?

地域活動が苦しい理由

地域の子どもたちが地域の人々に育まれながら、のびのびと遊ぶことができる社会環境を目指して活動しているけど、その大変さを8年間の地域との関わりで身に染みて感じてきた。

子ども会活動、PTA活動、町内会活動など、私自身は嫌いな方ではないタイプだと思うのですが、それでも参加することに精神的に苦しくなることがよくあった。

苦しくなる理由を私なりに分析してみると、

①恒例の行事実施は任意ではあるものの、強制的な空気がある

②自分がチャレンジしたいことができない、チャレンジしていい空気も感じない。

③お祭り好きではないので、「秋祭り」に参加するのが苦痛。

④今は子どもたちが外で遊ばないのではなく、遊べないということを説明しても理解してくれない住民(高齢者)がいて、すべて「親が悪い」とか「学校がしっかりしていない」という問題にすり替えてしまう。社会全体で考えましょうという意見に同意が得られない時代になったと思う。個人の問題が最優先で、社会全体の問題は、行政や政治の責任にしかがる傾向を感じてきた。

⑤活動してきて、地域で目立てば目立つほど大人社会の「いじめ」に苦しくなる時があった。出る杭は打たれると、昔から言われているので、しかたがない事ではあるが、地域の為に活動していても、それを必ずしもみんなが理解してくれるわけではなく、そのことが面白くない人たちが「陰口」で盛り上がり、直接私に怒鳴ってくる人は少ないものの、その空気感を地域でも感じることがある。

⑥だから、目立つことを誰もがやりたがらず、地域の優秀なリーダーが育っていない。そして、名誉職の為のリーダーと「やってあげてる感」炸裂のリーダーはもういらないと思うのに、なぜかそうした人がリーダーになる傾向が今もある。その下で働くのも結構大変(--〆)

地域が活性化しない理由

この苦しさが、地域の活動家(リーダー)が育たない要因になっていて、地域が活性化しない要因になっていると感じてきた。

①②③の問題に関しては、地域活動の主観が「社会を良くする」為なのか、「地域の伝統を守る」為なのかの問題ではないかと思っている。

これは両方同じように大切ではあるけれど、表裏の部分が大きい。伝統を守ることを優先すれば、新しい意見はなかなか通らず、地元以外の人を受け入れづらい空気が自ずと現れてくる。社会を良くしていくということは、今まで培った文化を解体する危険性も常に孕んでいる。でも、その表裏を共に受け入れながら、社会を良くする方向性をみんなでいがみ合わずに心を一つにして考えていく時が来ているのではないかと思っている。

④の問題は、高齢者と私たちとそれから今の子育て世代との育った社会環境が時代によってあまりにも違うことが問題を大きくしている。食べるものもない時代に育った世代にしてみれば、子どもの遊ぶ環境を問題視すること自体「ぜいたくな悩み」なのだ。だからどのように説明しても理解していただけない人はいると覚悟している。それでも地域の人の意見に耳を傾け、話を聞き、信頼関係が築ければ、少しだけでもお互いが寄り添える関係性ができると信じて活動している。

⑤⑥はどの地域にもあるし、企業にも、学校にもそれから娯楽番組、ネット上でもあることだけど、厄介な問題だと感じている。1人をターゲットにして、「陰口波及連鎖」はネット炎上と同じく、意見を同じくする仲間を増殖させることで盛り上がり、ストレス発散もしているから厄介なのだ。

これは、テレビの娯楽番組を見て何の悪気もなくゲラゲラ笑う日々の「日常」にも見えない波及加速効果の要因があると感じている。恐い思いをして泣いている人、痛い思いをして苦しんでいる人をゲラゲラ笑う。それでストレスを発散する。

私の場合でいえば、(これは想像ですが・・・)

「毎週毎週土曜日に1人で公園にいて変わってるよね、あの人。頭おかしいじゃないの。友達いないから1人で公園いってるんでしょ。あそこの家の子・・・でしょ。だから服臭いんだ・・・」

自分が言われていることを自分で想像するのはきついですが、おそらく、仲間内での情報を元に、ひとつ陰口が飛び出せば、連鎖であり得ないことも内容に含まれつつ飛び出すのが一般的な「いじめ」の始まりなわけです。

遊び場の子どもたちが日常的に1人の子どもをターゲットにした「いじめ」をなんの悪義もなく行う様子を見てきて、「いじめ」の真相が少しずつ見えてきました。その連鎖の始まりは、子どもが一番信頼している親との日常の中で培っていて、この社会現象は切実な所まで来ていると感じています。

そうした「陰口」を言いたくなくても、そのグループに属する限りは、その言葉に同調しないといけない、そしてそのグループから逃げると、今度は自分がターゲットになってしまう恐怖が始まる。

地域活動を活性化させるには

地域活動を活性化させるのであれば、この社会にはびこる「いじめ」波及連鎖をなんとかして断ち切り、励まし合って共生していける社会を目指さないといけないのですが、地域の関係が薄れ、家族の関係も薄れてきて、誰もが「いじめ」に遭うことを避けるために、個で生きることを選択し始めているから、これからの時代はもっともっとこの問題が切実になってくるように思います。

それでも、地域のひとりひとりと話し合い、悩み、一緒に行動してくれる人を増やしながら、子どもたちの未来のことを一緒に考えていきたい。私のできることはこれぐらいかもしれません。

でも、そうした考えの人が1人でも多く動き始めれば、事態は急変する可能性だってあります。というかその可能性を信じないと活動なんてできません!!

「子育て支援」でも「学校問題」でも「地域のこと」でも行政や他の人にゆだね過ぎず、動きはじめる人が増え、そして、次世代のリーダーが育たなければ変わらないと思っています。

国会でも、県会でも、市議会でも、議員さんは学校改革、子どもたちの社会環境のことなどいろいろと情報を持っていて、どうすればいいのかよく知っておられるけど、現場にはそれが反映されていないことが、まだまだ多いような気がします。

反映されない原因としては、そのことを市民一人一人に伝える立場の行政職員が忙しすぎるか、又は働いていない、又は市民に伝えその支援策を有効に地域に反映させる方法を知らない、又は3年しか同じ部署にいないのでスキルが未熟であることが考えられます。

国民の1人としてこうした問題を税金を増やし職員採用を増やすということで問題が解決できると思えないので、で、あるならば・・・市民が橋渡しをする。市民が動く。これしか手立てはないと思うのです。

国を守るとか、地域を守るという考え方が日本人全般で薄れてきているので、「なんで私が動かないといけないの~」と不満に思う人も多いでしょうけど、

でも、たぶん、もしこの状態が何も変わらず続いたら、日本にしろ、愛媛にしろ、松山にしろ、次なる時代はとんでもない時代が来るんじゃないかと私は想像してしまうのですが・・・(-_-;)

伝統文化はもちろん廃れ(人がいなくなるので)、ますますギスジスして気味の悪い犯罪が増え、警察官もこれ以上増やすことができず治安が悪くなる。それでも、資本主義の穏健に乗った人たちはますます裕福となり、格差が広がる。社会は富裕層の思いのまま。その反面、何もかも機械化が進み、仕事は減り、生活保護家庭はますます増え、鬱や自殺者も増え、その状態がピークになると、貧困層の怒りはピークとなり、暴動がおこる。また環境悪化はとどまることがなく、アレルギーの子どもがますます増加する。そして、グローバル化の波が緑豊かで日本一住みやすい街松山にもやってくるでしょう。異文化が大街道に広がり、謙虚で奥ゆかしい日本人の文化はおそらく歴史上の出来事となるのでしょう。これをよしとする人もいれば、ちょっとまった!と思う人もいると思います。

アメリカ映画に出てきそうな日本の未来予想図ですが、私自身は子どもたちの生きる社会がこうなってほしくないので活動しているわけです。

子育てして、家事して、共働きで働いて、子どもが大学行きたいって言えば、寝る暇もなく働いた上に、奨学金をいっぱい借りなきゃいけないから、老後だってどうなる事かと悩みながら、地域の為に頑張って、子どもをたくさん産んで社会貢献していても、なぜか子どもを産む数だけ家計は苦しくなって・・・(私のことですが(^_^;))

今でさえ大変なのに、これより悪くなるのは困る。子ども達にはせめてこの世に生れてきて良かったって思ってほしい。

地域活動って、「めんどい!」と思う人は多いかもしれませんが、ぜひぜひ1歩を踏み出してみませんか!出来る範囲で良いと思うので!一緒に活動して下さい(^O^)/

※松山総合公園のプレーパーク活動も今後はもっといろいろな人に関わってもらい、地域を活性化させるための活動に繋げていきたいと考えていますので、一緒に活動してもいいと思う人は連絡ください!