感謝を忘れなければ・・・

時給自足が当たり前の時代から、国内食料自給率40%の時代へ・・・

愛媛県で受け継がれてきた秋祭り、だんじり、亥の子というのは、自分たちが育てている食物と自然との関わりが密接に影響していた時代に、自然がおかしくなると、自分たちの生活に直接影響を及ぼしていたから、1年無事に過ごせたならば、感謝の思いを村全体で空の上の神、海にいる神、土の神、太陽に宿る神、すべての神様に必死で体で表現していたんだと思う。

そんな大人の姿を見て育った子どもたちは、神の存在を当たり前に受け入れて、日々無事に過ごせることを当たり前に感謝できる環境があったんだと思う。

でも、今の子どもたちにはそんな環境はない。

親が自然に対する感謝の気持ちをどう子どもに伝えるのかは、家庭ごとに違っている。

お父さんがサラリーマンであれば、必死に働いてくれている父親に感謝の言葉をいつもかけている母親のそばで育てば、「父親」に対する感謝の気持ちが育つ。

親が、山や海に連れて行ってくれて、その山の季節ごとの表情、その山の中で生きる村人との語らいの中で、その人々の様子から、自然に感謝する心が大切だということが伝わるかもしれない。

でも、どうだろうか?

1年を通じて「土」に触らず、「川」の流れを見ずに、「満点の星空」を眺めることもなく、ただ、テレビから流れる映像と、ネットの世界で生きたならば・・・どこで自然に対する感謝の心を育てることができるのか?

教育現場では今、「道徳」教育に力を入れているという。
机の上で、子どもたちは言葉を通じて感謝することの大切さを学んでいる。

中学校に行くと、部活動中の子どもたちが必ず「こんにちは」と声を掛けてくれる。小学校へ行くと、やはりみんな「こんにちは」とあいさつしてくれる。

でも、その言葉が私には「温かい言葉」とは感じないことが多くなっている。「言葉」と「心」というのは本当はツナガっていなくちゃいけないと思う。

社会に出れば社交辞令も必要にはなるし、要領も良くなくちゃ生きていけない。

それを学校でも学ばなきゃいけないことはよくわかるけど、「人を思いやる温かい言葉」も同時に学ぶべきではないだろうか?

温かい言葉というのは「ありがとう」「こんにちは」「すごいね」「だいすき」という肯定的な言葉だけではない。

誰かが苦しんでいたり、悩んでいる時に、一緒に考えて、先生に「これはおかしい!」と抗議をすることも「温かい言葉」の時もあるし、いじめっ子に「やめなよ!」と怒ることだって「温かい言葉」」だと思う。

平凡に過ぎゆく生温かい社会の流れに、疑問を感じても抗議しない若者が増えている。抗議すると平穏な日々がなくなることが恐いのだと思うけど、それでいいのか?

福島第一原発の爆発から、放射能の恐ろしさを肌で感じた市民が伊方原発の再稼働に反対する抗議をしている。これも「温かい言葉」であると私は感じている。

愛媛の未来を必死で守るための言葉であり、愛媛の自然に感謝しているから出る言葉だと思う。

自然を甘く見ると、本当に罰が当たる時が来る。石鎚山が松山から台風、寒波も守ってくれているからといって、すべてを守ってくれるわけではない。拝み宗教で安心感を得ても、神様にはお見通しだと思う。

子どもたちにそうした感謝の心の在り方をどう伝えていけばいいのか?難しい問題だ!

哲学・宗教学・心理学・天文学・・・学べば学ぶほどその神髄が見えてくる。

文部科学省もたぶん必死に考えて、あの道徳の教科書を作ったんだと思う。

だったら、私たちも協力しようじゃないか!

いろいろな人が子どもたちに関わって、人間として生きるってこと、そしてどうしたら幸せに生きれるのか!?悩みながら歩んできた大人たちがその軌跡を子どもたちに伝えたなたば、きっと子どもたちにも少しずつかもしれないけど、その道しるべとなるキーワードが見えてくるはず!

自然に感謝!
親に感謝!
地域の人たちに感謝!
友人に感謝!
子どもに勉強を教えてくれる先生にも感謝!

でも、納得してない事、疑問に思うこと、分からないことは言葉で話そうよ!
言いたいことをがまんして、苦しくなって、あきらめて、世の中を悲観して、感謝することを忘れてしまってはいけませんよ!

まず相談!!信頼できる仲間を少しずつ増やして、楽しく生きよう!


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