胸にしみる空の輝き
今日も遠く眺め涙を流す
悲しくて悲しくて
とてもやりきれない
このやるせないモヤモヤを
誰かに告げようか
※作詞サトウハチロウ、作曲加藤和彦「悲しくてやりきれない」より
地域の子どもと関わり始めて12年。関われば関わるほどモヤモヤは大きくなる。
子どもが地域で元気にのびのび遊びながら地域の大人に見守られながら育っていく姿を理想に掲げて活動はしてきたものの・・・
30年前・・・学校帰り、春は田んぼのカエルを追いかけて、夏はセミを捕まえて、秋は木の実を取って食べ、冬は北風がビュービュー吹いていても地域の空き地で野球に夢中!子どもは地域の人に見守られながら公園や空き地、田んぼや山などの自然の中で毎日地域の仲間たちと遊びこみ、お母さんが作る夕食の匂いに誘われながら家路につく。家では温かい家族の団欒が子どもたちの心を癒す。眠気に襲われながら宿題を済ませ、寝る前には絵本を読んでもらったりして親子の会話が絶えない場所が子どもたちには必要だと思ってきた。
だけど、子どもたちの育つ環境は全く変わってしまった。
共働きが増え、昼間母親が家にいるという家庭も少ないし、不審者などの問題から「かぎっ子」というのも今はもうできない。だから多くの子どもたちが学童クラブに入り、その中で過ごしている。3歳から保育園や幼稚園に入るのも当たり前となり、今では0歳から保育園で夕方6時や7時まで過ごすことも珍しくなくなってきている。
小学1年から3年の約3割が放課後、学童クラブで過ごしているのであれば、ぜひ少し外に出向き地域の空き地や公園、自然あふれる愛媛ならではの場所で遊ぶ活動を取り入れてほしいと願ってきた。
しかし、現状は予想以上に大変そうだ。味生地区の小学校の場合、40人から70人のクラスが5クラス。合計で200人以上が放課後を毎日一緒に過ごしている。指導員の数も足りないし、安全面も考えると屋外に出るのは難しいという話を聞いたことがある。実際そうした団体を地域で見たことはないし、運動場で遊ぶ姿もあまり見たことはないから主に室内で遊んでいるんだと思う。
学校帰りの寄り道、地域の山での虫取りなども安全を考えて基本やれなくなってきて、尚且つ子ども自身もそうした遊びへの魅力を感じることが少なくなってきている。誰もが一度はやってみたいと思う大人のいないところで作る秘密基地も経験したことのない子どもの方が今は多い。友達と遊ぶのにもLineなどでアポ取りが基本。それでもみんな忙しくて、仲の良い子同士が一緒に遊べる日が1週間に1日、それも16:00~17:00とか限定付きだったりする。
地域の人も不審者と間違えられることもあり子どもには声をかけない。子どもも関わりのない人にあいさつはしなくなった。その代わりに「見守り隊」という人が登下校時に当番制で立っていたりする。公園は不審者が多く出没するスポットとなり、子どものための児童公園だったはずが、今は地域の高齢者のためのゲートボール場としての街区公園という名前に代わってしまった。そんなゲートボールも少しずつ参加人口が減っているという。昼間、地域に人がいない。子どもが遊んでいても気に掛ける大人が少なくなっている。
私が住む松山市別府地区には山はあるし、ちょっと行けば海だってある。田んぼもあるし、空き地もある。でもそのすべてで子どもは遊ぶことはできなくなっている。イベント時だけ駐車スペースとなる場所ならば、少し前であれば、夕方時のみ子どもの遊び場として利用しても怒る大人はいなかったけど、今はどこでも遊ぶことはできなくなっている。だったらちょっと離れた松山総合公園だったり、海に遊びに行けばいいと思う人もいるかもしれないけど、校区外で遊ぶことは基本禁止されているから子どもだけで遠くに行くことはなくなった。不審者の不安から校区内に遊びに行くだけでも子どもを車で送迎する保護者もいる。
1年前から始めている「みんなのひろばわいわい」という地域の子どもたちの居場所でも子どもたちは大きな声をあげることは許されない。地域には高齢者や病気の人、夜勤明けの人など、生活スタイルもみんなまちまちだったりして、子どもの声がすぐ苦情になるからだ。
子どもが大騒ぎをすると如実に嫌な顔をする人に良く出会うようになった。大人も仕事の忙しさや人間関係の問題、家庭不和などいろいろなことでストレスを抱えている人が増えてきているように思う。
そして子どもたちもストレスをためて居場所にやってくる。暴言や暴力、嫌がらせや悪口の横行。そして最高の発散場所はゲームや馬鹿笑いができるYouTubeサイトの閲覧。昨年不祥事を起こした市議会議員を風刺したYouTubeサイトは大人気となっていた。政治不信は子ども時代からもう始まっている。
私が子どもを育て始めた平成3年から約27年間で、こんなに時代が変わってしまうとは思わなかった。
一人目の子どもを育てる時には、ゲーム機は高級品。携帯電話もスマホもない。夕方にはお母さんは井戸端会議で子どもは地域の友達と夕日が沈むのを見ながら遊んでいた。それから室内でも漫画を読んだり、アニメを見たり、レゴブロックやプラレールの組み立てを長男は飽きもせず1日没頭して遊ぶこともよくあった。
今は1歳ぐらいの子どもからもうすでにスマホをいじったりする。YouTubeで他の子どもがリカちゃん人形で遊ぶのをじっと見ていたり、レゴブロックで遊ぶのをじっとみていたりしながら1時間2時間という長い時間を過ごしている。人としゃべらず、バーチャルな世界で過ごす子どもたちが増えてきた。
とにかくどんどん人と関わることが少なくなっている。自然の中で遊ぶというのもバーチャルな世界のレベルがどんどん上がってきてゲームの中で満足している。だからいろいろな経験をすることも少なくなってきたし、失敗をしたり、泣いたり、笑ったり、怒ったり、一緒に感動したりといったリアルコミュニケーションがとても不足している子どもが増えてきた。
何となく子どもの育つ社会環境が変になっていると気づいている人は多いと思う。でも実際に現場で子どもと関わらないとその深刻さは見えてこないと感じてきた。子どもも大人も高齢者も人に干渉されることを嫌がる傾向はどんどんひどくなり、ある一定の仲間のみと関わり、基本ひとりでも生きられる世の中となってきた。だから目の前の子どもたちの状況よりも犯罪として報道される子どもの問題に関心事は向いてしまう。ノートに「おねがいゆるして」と書き残し、5歳で親に虐待を受けて死んでいった船戸結愛(ゆあ)ちゃんの事件はあまりにも衝撃的だった。こんな事件は絶対起きてほしくない。でもその予備軍はどの地域にも存在する。
日々地域の子どもたちと関わっていると日本の未来が心配になることが多い。「生きる力」が見えない子ども。勉強は基本みんな嫌い。でも優位には立ちたいし、一番にはなりたい。友達よりも成績は良くなりたい。常に競争している。負けたくない。仲のいい友達がいっぱいいる方が勝ち?マラソン大会の順位が友達より上がいい。服もかわいいのがいっぱいあるのがいい。いつも同じ服を着ている子やイマドキではないデザインは「ダサくて、キモくて、ウザイ」らしい。みんな自分が優位に立ちたい。だから駄菓子をおごる子も多かったりする。お金で友達ゲットという感覚もあるようだ。「愛はお金で買えると思う?」と質問すると大半の子は買えると答える。そんな日常会話の中で「愛はお金では買えない」という説を私が一生懸命しゃべりだすと「うざい」の一言。ま~とにかく気長にのんびり関わるしかないな~と思いながらのこの1年である。
でも気長に関わる中で未来への光もかすかに感じ始めている。
「みんなのひろばわいわい」は学校ではない。だから基本指導はしない。居場所を探している子どもたちを受け入れるシェルターの役割もあるし、駄菓子を食べながら学校のこと家のことをおしゃべりしてストレス発散するカフェの役割もあるし、日頃時間のない子どもたちが少しの時間でいいからお友達と遊びたいと思った時、仲間が見つかる場所だったりもする。小さな妹弟の面倒を見ないといけない子どもたちはココにこれば自分の時間が持てて、子守から少しだけ開放できる。それからその子守をしたい子にとっても最高の場所になる。子ども自身がコミュニティーをどんどん作り上げていくプロセスを私たちは見守っていくといった感じである。
子どもたちの口コミで多いときは50人、雨の日でも5人ぐらいは遊びに来る。
昨年度は6年生が学級崩壊状態ということもあり、その不安を表現する子がとても多くいた。話すといっても子どもは学校で起きたことを明確に話すことはなかなかできない。
良いことなのか、悪いことなのかがわからないために、暴言暴力は自己防衛である場合もあるし、穏やかな家庭で育っている子は、学校で起きていることが異常なのか、当たり前なのかも見えなくて、嫌なことをいう子と仲良くしなければいけないという良い子呪縛のようなものに苦しむ子もいる。まさしくスクールカーストのどの位置に自分を置くかで学校での過ごし方が変わる。現場で子どもと関わると学校に行かない選択もあるべきではないかとさえ思えてくる。(学校での暴力の低年齢化は文部科学省でも重く取り上げています。)
そんな中では暴言暴力はスクールカースト上位の絶対条件のようにも感じた。何度も駄菓子屋で出会い、たわいのない話をする中で彼女たちの心の内側が見えてくることがある。小学3年の子どもたちが私に対しひどい言葉を浴びせるようにいじってくるとき、「やめろよ!かわいそうだろ!」となぜか誰かがフォロを入れてくれる。学校では空気を読んで汚い言葉をあえていう彼女たちも、本当は温かい言葉で仲間と会話したいと思う内面が見え隠れする。
誰もが本当は「ありがとう」「大丈夫」「元気出して」など相手も思いやる言葉を使いたいし、友達からかけてもらいたいんだろうなと感じる。でもいうきっかけがないと言えなくて、一度その言葉を出すと次から何となく少しずつだけど思いやりの言葉で出てくるタイミングが増えてくるように思う。
そのきっかけはいろいろな人との関わりや、子ども同士の遊びの中でのけんかや言い合い、仲直りや泣き笑いからちょっとずつだけど生まれているように思う。女の子でも男の子でも言いたいことは言った方がいいと思っている。けんかになって絶交するけど、半年ぐらいたつとなぜかめっちゃいい仲間に変化する事例も何回か見てきたからだ。
「人は人の中で育つもの」AIではたぶん子どもは育たないと思っています。
地域の子どもたちの未来を考えたとき、「悲しくて悲しくてとてもやりきれない」と感じることはこれからもまだまだあると思う。私のできることは微々たるものですが、次の時代に向けての人材がどんどん育ってくれることを願うし、つながる何かを残せていけたらと思って居場所づくりを続けています。