- 問題発生!
- 子どもとの関わり・・・理想と現実
- 自然体験 子の宝
- リーダーシップより協調性、保護者にとっての「理想の子ども像」
- 寛容に守りたい「公園の自由」
- 「偉くなりたくない」日本の若者
- 今年の水遊びは・・・
- ずぶぬれ!けんか!猫の死骸?
- 松山冒険遊び場での「自分の責任で自由に遊ぶ」ということ
ゴールデンウイークということもあり、家族でお出かけしているのか、この日の参加者はちょっと少ない感じでした。それでも、暖かい日差しに誘われて、出入りは多かったように思います。
そんないつもの遊び場にちょっと問題が発生しました。
原因は、公園にいつも乗り込んでいる遊び場の材料を持ってくるための車。
以前から、「車には乗らないで!」と言っていたのですが、なぜかみんなが乗りたがるようになり、いつしか私に隠れて乗る子どもも現れて・・・。
遊び場の車は、購入してから十年以上たっているので、いたるところに痛みが出ており、これ以上粗雑に扱うと、本当に乗れなくなる可能性もあります。安全管理はしっかりやっているつもりですが、それでも子ども達の予想できない扱いには持たないかもしれません。そして、壊れてしまった部分の損害を壊した子どもに請求しなくてはなりません。
今まで何度もこのことを話してきたのですが、わかってもらえず、やむおえず警察の方にお願いして、車に勝手に乗ったりすることがいけないことだということを話していただきました。
子ども達は、姿勢を正して、警察の方の話を聞いていました。
※西警察署のお巡りさん、ご迷惑をおかけしました。
その後、子ども達は私たちに謝ってくれました。このことはこれで解決した!と言いたいところなのですが、自分の中にはまだ割り切れない何かがあります。このことで、その子たちをはじめ、今まで車に乗っていた子ども達ははたして反省しているのだろうか? 私自身もこのことは絶対してはいけないことだと、子ども達に言いきってきたのだろうか。
警察を呼ぶのではなく、他に解決する方法はなかったのだろうか。
子ども達に「やっても良い事」と「やってはいけないこと」があることを大人はしっかり子ども達に教える義務がある。
伝える作業は手間と時間がかかる。
子育ても子ども達の見守りもその部分は変わらない。
大人は、子ども自身の心(良心)に働きかけるような内発的動機づけを心掛け、傾聴を基本として、最終判断は子ども自らがしていくことが基本なのだと思う。
そのためには大人は子どもに信頼される必要がある。決して媚を売るとか、何か買ってあげることが信頼ではない。世の中の矛盾に流されず、誠実に自分らしく生きれば、子ども達はその後ろ姿にちゃんと信頼のまなざしを向けてくる。
そんな信頼される大人が、遊び場にいたならば、今回の問題は起きていない。
プレーリーダーである自分自身がまだまだ勉強不足で、修行できていないのだと痛感する出来事だった。
また、子ども達がこうした行動や発言をする背景には、良い事と悪い事の判断を教えていない親が悪いとか、テレビやインターネットサイトの中で子どものそうした行動を助長するような発言や映像が毎日流れていることが問題という声も毎日、新聞等で出ている。
しかし、この社会で起きている問題と、今自分の前にある問題は別枠で扱わなくてはいけないように最近感じている。
社会を変えることは、並大抵なことではない。
国が変わり、市民一人一人の意識が変わっていかなければ、ある一部の考えで良い方向へはなかなか変化しない。
そのために団体として啓発活動はこれからもしていこうと思っている。
社会を変えることは長期的なスタンスでしていかなければいけないことで、遊び場とか児童館とか、学校とか目の前にいる子ども達に対しては、今できることをある意味そんな社会だからこそ切迫感を感じながら行動していく必要がある。
先生や親、近所のおばちゃんおじちゃんが子ども達に目を向け、暖かいまなざしで見守り、悪い事をした時にはわかるようにしっかり叱る。何度も同じことをしてもあきらめずに叱る。悪ガキ時代の子ども達にもできることなら「悪い子」というレッテルを貼らずに、叱ってあげてほしい。悪い事をした瞬間に叱ることは私が思うには一番いい叱り方だと思う。
そんなことをしたら、その子の親御さんが文句を言うんじゃないかとか、どんな子かわからんから叱るのが怖いとかいう人もいるけど、だからといって、学校や PTAに文句を言っても子どものためにはまったくなっていないことを知ってほしい。
悪い事をした子は叱られなかったら「まぬがれた!」と思いまた同じことを繰り返す。何にも悪い事をしていない子が、学校からのお知らせなどで「~で遊んではいけません。」とか「~はしていけません。」ということを必死で守るから、ますます自由な遊びはできなくなってくる。
「叱る」っというのは悲しい事でも怖いことでもない。本当に大好きだから、心配しているから「叱る」。やってはいけないことを子ども時代に伝えなくては、大人になってから困ることがあるから「叱る」という方法を取るのだ。
(愛媛新聞 2010年5月25日より)
子どもの頃に自然体験が豊富だった大人ほど、物事への関心・意欲が高い傾向があることが二十四日、二十~六十代を対象にした国立青少年教育推進機構の調査で分かった。
調査は、子どもの時の様々な体験を通じてどのようにな力が付くのかを調べようと、昨年11月に男女5,000人を対象にインターネットを通じて実施した。
「海や川で貝や魚を捕ったこと」が「何度もある」人は、「なんでも最後までやり遂げたい」との質問に86%が「とてもあてはまる」「ややあてはまる」と回答。「少しある」人では80%、「ほとんどない」人では76%だった。
また、「夜空いっぱいに輝く星をゆっくりみたこと」が何度もある人は、85%が「もっと深く学んでみたいことがある」に「とても」「やや」あてはまると答えたが、ほとんどない人では71%と差がついた。
ただ年代が若くなるにつれて、子どもの頃の自然体験が少なくなっていることも判明。
中学生の時に「海や川で魚や貝を捕った」体験が「何度も」「少し」ある人の合計は、60代では54%だったが、30代は40%、20代で37%と減少していた。
機構は「青少年の健全育成のために自然体験の充実を図っていくことが必要だ」としている。
※子どもの体験活動の実態に関する調査研究(国立青少年教育推進機構)より
(産経ニュース2010年4月8日より)
国公立の幼稚園に通う子供を持つ保護者に「理想の子ども像」を聞いたところ、ほぼ全員が「人に迷惑をかけない」など協調性を求めたのに対し、「リーダーシップがとれる」とした保護者は約半数にとどまったことが8日、全国国公立幼稚園長会が実施した調査で明らかになった。
岡上直子会長は「最初から協調性ばかり求めると、成長した時に他人の意見ばかり気にして、自分の意見が言えないようになる恐れがある」と話している。
調査は昨年10~11月に実施され、全国の保護者約3,000人や教員約1,100人が回答した。
子供の理想像(複数回答)では、「人に迷惑をかけない」「礼儀作法をわきまえる」「ルールや決まりを守れる」という項目で、「そう思う」「ややそう思う」と答えた保護者が合わせて98~99%に上った。一方「リーダーシップをとれる」は合わせて54%、「人より秀でたところがある」も59%に留まった。
保護者には子育て方法(同)も尋ねた。
「悪いことは悪いとはっきり言う」と答えたのは89%で、「比較的よくほめて育てる」としたのは38%。
子育ての向き不向きの認識では「向いている」としたのが13%、「向いていない」は33%。子どものしつけについて79%が「自分以外の大人に登場してほしいと思う」としており、不安を抱えている姿も垣間見えた。
保護者と教員の意識のずれも浮かんだ。
子どもに年齢相応の規範意識が身についているかとの質問では「とてもそう思う」「まあそう思う」とした保護者は合わせて79%だったが、教員は55%。
公共マナーへの意識でも「電車の中で化粧」を「気にならない」と答えた保護者は23%で、20代(約280人回答)に限ると37%。これに対し教員は12%だった。
※子どもの心によりそい、規範意識の芽生えを培うプログラムに関する調査研究報告書(全国国公立幼稚園長会)より
(愛媛新聞2010年4月5日より)
シャボン玉、キャッチボール、子どもたちの歓声。
久しく失われていた市民のにぎわいが、満開の桜と共に新たな「場」の門出を祝った。
松山市の城山公園堀之内地区の第一期整備が完了し、全面解放された。市整備計画検討委の報告書がまとまってからでも十年。長い歳月をかけ多くの施設を移転・廃止し、史跡の発掘調査などを経て、ようやく広大な緑の公園に生まれ変わった。
町の中心部に、これほど広々とした空間を有する都市は珍しい。市は「二十一世紀の松山版セントラルパークに」と夢を描く。国の史跡であるがゆえに新たな建造物が建てられなかった事情も、今となっては「幸運」だったかもしれない。開放的な公園の「何もない自由」をどう守り、どう楽しむか。市民一人一人の創意工夫と自主性が発揮され、長く愛される場として定着することを期待したい。(一部省略)
特筆すべきは、「みんなでつくろう みんなのルール」をうたい、窮屈な制度や禁止事項を極力設けないことを打ち出した市の姿勢だ。他の市公園では原則禁止の「ペットの散歩」「ボール遊び」も自由。「ふんは持ち帰る」「バットは使わない」など最低限の注意はあるが、6カ月の試行期間中に意見を募集、必要ならルールづくりを検討するという。
賛否の分かれるこうした問題では、行政は面倒を避けるために、ともすれば過剰規制に陥りがち。
公園という、お仕着せのルールや規制がにつかわしくない場所で、市民の自主性を信頼する選択は好ましく、大いに賛同である。
そしてボールは、市民の側に投げ返された。
社会全体が不機嫌、不寛容な時代。多くの人が集うほどに、トラブルや気がかりは増えるだろう。
それでも、常識の範囲で少しずつ譲り合い、誰にとっても心地よい空間を守る努力を重ねていきたい。
戦後長らく文化・スポーツの一大拠点だった堀之内を、未来を担う子どもたちがキャッチボールひとつできない場にしてしまっては、つまらない。
他者への寛容な心と自律心を培い、新たな楽しい「場の記憶」を紡ぐ手助けをするのは、その昔、堀之内や近所の空き地を駆け回っていた今の大人たちの責務でもある。
(日本経済新聞2010年6月29日より)
日本青少年研究所は日本・韓国・中国・米国の高校生の意識調査を行ってきた。
そこから浮かび上がった日本の若者の特色は「偉くなりたくない」「平凡でいい」という人生観である。
「偉くなりたいですか?」の質問に、「強くそう思う」「まあそう思う」の割合は、中国86%、韓国72%、米国66%、日本43%。「暮らしていける収入があればのんびり暮らしていきたい」という考えに、「とてもそう思う」と答えたのは、日本43%、韓国22%、中国19%、米国14%。
豊かな時代に育った若者には、昔のような勇気や冒険・知恵はもう必要ない。
新たな目標は「のんびり」である。
それは他人の親切を必須としない時代ともいえる。他人の親切やたがいに助け合う必要の希薄な時代は、必然的に子どもたちの人間関係を希薄化させる。人と人との助け合いはおせっかいになる。こうして一歩距離をおいた希薄な人間関係が、たがいに傷つかない最善の他者関係となっていった。
豊かさとともに失われたのが競争だ。「国内の一流大学に進学したい」と思う高校生の割合は、四カ国中、日本が最低。「高い社会的地位につく」「お金持ちになる」「自分独自の特技を持つ」でも日本は最低だった。さらに「高校生の勉強に関する調査」では、日本の高校生の勉強時間は他国より短かった。
最近の子どもは「なぜ勉強しなければならないのか」と問うようになった。
何のための勉強なのか、豊かな時代の勉強の意味が不明になっているのだ。
それは今日の勉強が競争のための勉強に堕した裏返しかもしれない。
日本は1980年代に消費社会に突入した。大量生産・大量消費の時代から、他人とは違う「わたし」の差異化が花開いた時代であった。そうした社会では自分のアイデンティテイも他人との差異に求めるようになった。偉い人ではなく、違いを示すことが目標となった。
ふつうのままで生きていくこと自体に何の支障もなくなった。がんばらなくてもいい、目だたなくてもいい社会となった。むしろ平凡がいい社会になったといえよう。
だが未来が不透明な中で、どんな人生目標を立てて生きていくのか、現代の若者たちに問われている。
※財団法人 日本青少年研究所より
最近の遊び場の子ども達の様子を見ていると、二極化しているように思う。
毎週来て自分たちで各々の遊びを考えて、こちらが指導しなくても勝手に遊ぶグループと、遊びが見つからなくてつまらなくなるグループ。
以前、高校生達が毎週来てくれていた時は、そんな子ども達の絶好の遊び相手になってくれていた。とにかく走りまわって騒いで大はしゃぎして…。 子ども達はお姉さんお兄さんが大好きというか憧れ的なものを感じるのだと思う。
遊びのボランティアスタッフの存在が重要であることをひしひしと感じる今日この頃である。
だからと言って、今の子どもに関わる社会問題を、「ないから与える。」ことで解決させる社会の在り方には警告をおくりたい。
日常生活でも、学校でも与えてもらうことに慣れている子どもたち…。 当たり前とさえ思っている子どももいる。
昨年まで、遊び場では水鉄砲をたくさん購入し、子ども達の喜ぶ顔を見たいがために自由に使ってもらった。
しかし、その結果…
あまりに乱暴に使う子どもが多く、その上参加費も払わずぼろぼろにして平気で暴言を吐く子もいたりしてスタッフは悲しい思いをした。どんなものでもお金がないと買えないし、そのお金はみんなのお母さんやお父さんが働いて稼いだお給料だし、スタッフの思いがこもったものなのに、どうしてそんなに粗悪にあつかう事が出来るのだろうか?大切に使う気持ち、感謝する気持ちがない子どもにはその事をしっかり伝えるようにしているが、子どもたち自身がその事にいつか気づいてくれることを願ってやまない。
こんなことがあり、スタッフで相談した結果、水鉄砲は購入しないことにしました。
その代わり、バケツやペットボトルは持って行っています。
と、言う訳で、今年からは「水遊びをやるんだったら自分たちで工夫しろ!」
宣言をしたわけですが…
その結果…今年も水遊びをしたい子どもたちが集まってきて、予想以上にすごいことに…
子どもの「水遊びをしたい!」という思いは本当に絶大と言うか…
みんなが水で遊びだすと、次から次へと遊びに参戦する子どもが続出…
持っていったペットボトルや、バケツなんかもなくなってしまい、それでもやりたい子は、自分でペットボトルを購入しジュースを飲んで、穴をあけて参戦!
毎週のようにずぶぬれになるまで遊ぶ子と、昨年まで思いっきりぬれていたのに、今年はぬれないように遊ぶタイプと、これまたいろいろ。
そんなさなか、五年生の男の子が一対一のけんかを始めてしまいました。
原因は水鉄砲大会の勝敗について納得いかないことからのように思うのですが?その辺は子ども同士のことなので定かではありませんが…
他の子ども達も心配そうにそのけんかを見守ってくれていました。そして、無事けんかが終了すると、また何事もなかったかのように仲良く遊んでいました。
梅雨の中休み。初夏の風が子ども達の中に心地よく流れていたように、大人の私は感じた一日でした。
そんな激しい遊びをしているさなか、猫の死骸を見つけてはたまた大騒ぎ…
(詳しい事はブログを見てね♪)
冒険遊び場は「自分の責任で自由に遊ぶ」をモットーにして、活動している。
しかし、最近、「自由に遊ぶ」ということと、「責任を持って遊ぶ」ということが繋がっていない子どもや大人が多いように感じている。
子どもにこのモットーを見せると、「何をやってもいいの!人殺ししてもいいんだ!」と、「自由=何でもしていい」というように考える子どもが多い。
なぜ、このような発想に至るのだろうか?
今の子ども達は、地域の中で異年齢の子どもたちと遊ぶ機会が極めて少なくなっている。そのため、遊びの中でやってはいけないこと、この場所ではしない方が良い事、たくさんの仲間の時はしてはいけないけど、2~3人なら大丈夫な遊び、季節によってできる遊びなど、遊びながら育てていく「遊びのル―ル」が育たなくなっている。
異年齢の子ども達と毎日のように外で遊んでいた、昔の子ども達は、暗黙の「遊びのルール」が体に身についていたように思う。
自由に山や海で遊んでいても、お兄ちゃんお姉ちゃんはそれなりの責任感をもち、小さな子ども達はそのお兄ちゃんお姉ちゃんを尊敬し、遊びながら仲間と切磋琢磨して成長してきたのだと思う。
「自由」には「責任」が付いてくる。
自分のやりたいように遊んでも、その事でケガをするのであればやめるべきだし、それを選択する責任は誰にでもある。
「大人には責任があって、子どもにはその事を問うのはかわいそう」と思う人がいるが、それではその責任力はいつ養っていけばよいのだろうか。
子どもは発達段階ごとに、さまざまな試練に遭遇し、それを泣いたり考えたり悩んだりして乗り越えていく。
試練に遭うたびに、親がアドバイスして、その壁を低くして、安全ばかりを提供することが子どものためになるのだろうか。
今の社会は、誰かに指示されないと、自分の人生すら選択できない大人が増えてきている。
人生を選択できなくて、人生の壁を乗り越えられなくて、心を病んでしまう若者が増えてきている。
うつ病が「国家的課題」となりつつある現在、子どもの成長段階のそうした問題点を改善していくことが、子ども達の未来を明るくしていくことではないだろうか。