遊び場通信16号 2012.7.20

  • 遊び場活動休止について
  • 飯岡公園は新緑と藤棚と菜の花と~もう初夏の兆し~
  • なんでも遊びに変えてしまう能力
  • 「地域の絆」「共助の精神」
遊び場活動休止について

平成18年8月から約6年間開催してきた、松山市別府町の 冒険遊び場活動「飯岡公園で遊ぼう!」は、平成24年6月30日(土)をもって休止といたします。

長い間ご支援いただき本当にありがとうございました。

最近では地域の1年から6年までの子ども達と中学生が毎週のようにやってきて活発な遊びがみられるようになり、平日もたくさんの子どもたちが遊ぶ活気のある公園になってきました。

地域の方々も公園を通る折に声をかけてくれたり、子どもたちと遊んでくれる人もいたりして、地域に根差した公園として定着し始めたところでしたので、私としても大変ショックな決断となりました。

しかしながら、飯岡公園地区の町内会の方から「地域の苦情」が多いとのご指摘をいただき、話し合いの結果6月いっぱいで飯岡公園での遊び場活動は休止といたしました。

苦情の内容としては・・・
①町内の子どもたちが遊べない又は他の子どもたちが遊んでいると遊びづらい
②公園のトイレに登っていた子がいた
③花を踏む子どもがいる
④公園内にゴミを捨てる等

一般に考えると話し合いや子どもたちに注意する等の方法ですべては問題解決できるし、それほど大きな問題ではないようなものがほとんどでした。

このような苦情に町内会としても「地域の人たちに育まれながら子どもたちが遊ぶことのできる社会環境の重要性」を理解した上で、私たちを守って下さっていたそうですが、町内会長をはじめ公園管理協力会の方々も高齢となり、そのような苦情に対応するエネルギーが出せない事が一番の理由とのことでした。

そして、公園に対する苦情というのは飯岡公園に限らず松山市内どの公園にも起きている問題で、それを公園管理をしている各公園の協力会の方はとても苦慮されているというお話も教えていただきました。

私も、松山市主催の平成21年度「みんなのまつやま夢工房“みんなで公園へレッツゴ―”」の市民メンバーとして参加した際、松山市内の公園の実情を松山市公園緑地課の方や昔から公園に携わっている方々からお話を聞く機会があり、公園についての問題はますます深刻になり続けていると感じました。※内容は「地域の居場所としての公園」という題名でブログに掲載

しかしながら、地域の公園は、「地域の方々が気持ちよく日々の暮らしができる常に心地よい空間を維持していくこと」が求められています。

それにひきかえ子どもの遊びというのは「うるさい」「きたない」「あぶない」が基本についてくるもので、双方がイコールになる事は絶対あり得ないのです。

その二つの空間がバランスよく地域に根差すためには、共に助け合い協力し合う「共助の精神」が復活してこなければ叶わないことであるかもしれません。

子どもは遊びの中で社会のモラルを学び、コミュニケーション能力を身につけます。そして地域の人に育まれながら育つことで地域を愛する心、地域を守る心が育ちます。そんな子どもたちが大人になり地域を守る立派な大人となって、「社会を支える事のできる立派な人材」へと育っていくことが私たちが活動を続ける目的です。

それは裏を返せば「地域の方々が気持ちよく日々の暮らしができる常に心地よい空間を維持していく社会」を根底から支える人材の育成に繋がっているのではないでしょうか?

今後も冒険遊び場(プレーパーク)活動は違う形で継続していく予定です。

全国にある冒険遊び場団体とも連携を深めながら、安心・安全に子どもたちを育むことのできる地域活動の可能性を模索しつつ、禁止するのではなく、子どもたちや地域の人たちと考えながら一緒に作っていく遊び場を目指していきます。

飯岡公園は新緑と藤棚と菜の花と~もう初夏の兆し~

(2012年4月28日のブログより)
ゴールデンウイーク1日目の遊び場・・・

新緑が芽吹き公園中央にある藤棚は今年もきれいな花が咲き、地元の人たちが丹精込めて育てているビオラやマーガレット、菖蒲等の花々も初夏の訪れを教えてくれている様であった。

南側の空き地の菜の花は子どもの背丈ほどに延び、黄色い花を楽しませてくれていた。

そんな公園に今日もたくさんの子ども達が集まってきていた。

昨年、一昨年のゴールデンウイークは晴天でも子どもの数は意外に少なかった。

「今日も、きっと、家族でおでかけしている子ども達が多いんだろうな~」と思っていたのに、この日も五十人以上の子どもたちが参加

新しい子ども達としては、最近南斎院の松山生協近くにオープンした「NPO自立サポートネットゆう」の活動として行っている児童クラブの子や、それから同じく味生第二小学校校区の子が友人を連れて3人参加。

地域の子ども達でも初参加の顔ぶれが何人かいたように思う。

そして、おなじみの顔ぶれが遊び場の雰囲気を盛り上げてくれていた。

「最近顔見ないな~」と思っていた現在中学1年生の男の子達も、遠藤さんとの野球を楽しみにやってきていた。

遊びの内容としては、「お手伝いショップ」「お花屋さん」「電気を通す科学実験」「砂場で川を作り、左官屋さんごっこ」「川に落ちた鉄製の部品をとる為に始まった、磁石による落し物拾い」等、

いろいろな遊びが展開され、誰もがそうした仲間の「やってみたかった遊び」を実現していく姿に触発されて、また新たな遊びが開発されていく。

「危ない」と思う感覚が、外での遊びには室内に比べ多い事は確かではあるがそれ以上に子どもの笑顔、遊びの展開、大人が予想だにしないところに喜びを見い出す子ども達の独創的な感性など・・・外でしか得られないものがたくさんある。

そんな子ども達の感性は、固くなった私たち大人の頭をほぐしてくれ、当たり前の日常を心和む空間へと導いてくれるエネルギーがあるのだと思う。

なぜそう思うのか…

それはそこで一緒に遊んでいる私たちが「今日も公園に行って良かった」と「シアワセ」を感じるから。

それに尽きる。

なんでも遊びに変えてしまう能力

(2012年6月9日のブログより)
前から思っていた事ではあるが、子ども達はどんな事でも遊びに変えてしまうものすごい能力を持っている。

例えば、今年の春頃にヒロさんが先頭になって行った公園の側溝掃除。

子どもたちに「そうじするぞ~!」なんて言っていないのに、みんなで必死に側溝の掃除を始めていた。

3週にわたって行った掃除を楽しみにやってくる子もいたぐらいである。

そして、その掃除のおもしろさが忘れられないのか、たまに今でも掃除をし出す子どもがいる。

今日は、その掃除中に太いミミズを発見し、ミミズ集めの為に掃除をするパターンに遊びが切り替わっていました。

それから、公園北にある川での釣りが流行りだすと、自分の釣り竿を作ってみたり、餌のミミズをとってみたり、釣り針をアレンジしてみたりと、さまざまな遊びに変化させて遊んでいた。

おもりがないと水の中まで餌が落ちない事も子どもたちが発見し、どれぐらいのおもりを付ければちょうど良い深さに沈むかとか、木は沈まないとか、糸が長すぎると絡まって解くのが大変だからちょうどいい長さにした方がいいとか・・・

とにかくこんな遊びの中からも毎回様々な遊びを発見する子どもたちが現れる。

今日はその延長で、3年と6年の男の子が「ドジョウ」を発見!

「ドジョウ」と言っても野田総理ではないですよ・・・(^_^;)

「どこで見つけたの?」

「どうやってとったの?」

と、みんなが必死で聞いているのに絶対言わない二人・・・。

この環境がより一層の探求心を育てるんだよな~・・・っと思いつつ、私は無言で見守っていた。

日々、日常の中に「おもしろい事」はいっぱい潜んでいる。

でも、「おもしろい事」は誰かに与えられるものと勘違いしている人も今はけっこう多いように思う。

「おもしろい事」「楽しい事」「ワクワクする事」「生きていて幸せに感じる事」は実を言うとみんなの前にちゃんとある。

でもそれは自分自身でつかまないとすぐ逃げていってしまう。

子どもの頃に培った「何でも遊びに変えてしまう能力」は大人に成長した自分自身から湧き出てくる探求心を呼び覚ますスキルとして生かされていくのではないかと思う。

「地域の絆」「共助の精神」

子どもを取り巻く社会環境は変化し続けている。

その中でも不審者に対する不安はますます大きくなるばかりである。

最近では学校からMACネットを通じて、不審者情報が親の携帯電話に毎週のように流れる時代になった。

以前、PTA広報をしていた頃、この不審者情報の源はどこで、どのように流れるのか取材をしたことがある。

その時の話では、まず住民が情報を警察に通報(学校では受け付けていません。)、警察がその情報の裏を取り不審者情報として流した方が良いと判断したものだけ、PTAを通じて各保護者の携帯電話に配信されるとのことだった。

不審者情報として流した方が良いという判断も、その人が本当に不審者だったのか確証がつかめている場合で、尚且つ被害者の個人情報を保護できると判断した場合のみとなる。と、いうことは、本当に被害にあった場合は情報として流れない場合の方が多いということにもなる。

つまり、不審者情報だけを鵜呑みにして子どもの安心・安全を確保することは不可能ということである。

この情報はあくまでも、「もしかしたら地域に変な人がいるかもしれませんので気を付けてください。」という注意でしかない。

それではどうやって我が子と地域の子ども達を守っていけばよいのか?

それは人と人の繋がり、思いやり、共助の精神の必要性がどこまで地域の人たちに理解されているかにかかっている。

私たちは冒険遊び場活動の中でさまざまな人と関わって子どもを見守ってきた。

「不審者と間違われてしまった子どもと遊ぶのが大好きなおじさん」

「子どもに大人気の高校生」

かたや「真面目そうな大人の考えられない不審行動」、

「性欲による変質行動」等々・・・。

おそらく昔も今も社会にはいろいろな人がいて、子どもたちは地域でいろいろな人と関わって良いことも悪いことも学びながら育っていることは変わらないんだと思う。

ただニュースなどで流れる異常な犯罪を犯す人間が、もしもこの地域にいるとしたら絶対子ども達を守らなくてはいけないという使命、そうした情報がテレビから毎日流れることにより、親が変わった行動をする大人に異常に敏感になり、そういう大人との関わりを避けるこ
とで子どもの安全を守ろうと考えるからではないかと思う。

しかし、そうした問題を解決する為に「避ける」「禁止」等の子どもの行動を抑制することで安心してはいけない。

子どもはこの時期に発達段階における「ギャングエイジ」として、さまざまな人たちと関わっていく中で成長する必要がある。

好奇心旺盛なこの時期に、限られた人間のみとしか関わらなかったとしたら、将来にわたり精神的問題を発症する可能性も大きくなり、昨今、子どものコミュニケーション能力の低下が大きな社会問題になっているが、このこととも密接に関わっていると考えるべきであろう。

異常な犯罪はどの地域でも起きうることで、それは学校や警察のみに頼るのではなく、自分たちが今どうしたらいいのか真剣に考え、話し合う場が必要なのだと思っている。

子どもを守りたいなら、安易な情報社会のみに頼るのではなく「地域の絆」「共助の精神」復活が大切なのではないだろうか。