- 地域の自然と人と子どもと遊び場がつながれば、社会はきっと良くなる
- 「福島の今を知り、愛媛の防災を考える」活動報告
地域の自然と人と子どもと遊び場がつながれば、社会はきっと良くなる
松山の冬は穏やかである。
雪もほとんど降らない。
それでも山に出かける時には、少し躊躇してしまう。
日頃エアコンの効いた部屋での仕事に慣れてしまった体には冬の寒さはやっぱりこたえるのである。
それでも、どうして冒険遊び場活動が止められないかと言えば、活動後の子どもたちの笑顔と、それから自分自身の心が活動前よりも確実に元気になっていくのを感じるからである。
松山総合公園での遊び場活動を始めて9ヶ月。そして飯岡公園での活動期間も合わせると、あっという間に7年6カ月が過ぎていた。
その間、楽しいことばかりではなかった。地域で子どもたちが遊ぶ姿が増えるのを喜ぶ人もいれば、怒る人もいる。「遊び」が子どもの発達段階に置いて重要だと理解する親もいれば、無関心の保護者もまだまだ多いように思う。
それでも、毎回、活動終了後にアップしているブログを毎日約百人以上の人が見てくれるようになったことは心強い。全ての人に理解してもらうことは難しいかもしれないが、地道な活動が少しずつ理解されてきたことは本当にうれしい限りである。
地域に根差した地道な活動を続けてきて思うことは、「目の前の子どもたちとの関わりの重要性」である。
大きな理念を掲げ子どもの健全育成をアピールしたとしても、それは絵に描いた餅。目の前の子どもは救えない。
地域の一人一人が地域の一人一人の子どもたちを見守ることがやはり最善の方法だと思う。
社会を良くする根底にはその必要性とそれを心掛ける市民一人一人への感謝の念が地域に広がることが重要なのだと思う。
インド独立の父、ガンジーは「善きことはカタツムリの速度で動く」といい、アメリカ公民権運動の指導者キング牧師は「すべての進歩は不安定であり、一つの問題を解決しても、我々はまた他の問題に直面することになる。」と言っている。
社会がよくなるというのは、こうした言葉を借りれば、ゆっくりなのかもしれないし、決して平坦な道のりではないのかもしれない
子育てもしかり。紆余曲折、いろいろありつつ、親は悩みながら子どもと共に成長する。
小さな子どもたちは、素直で、元気で、ポジティブで、喜怒哀楽があって、やりたいことの為に知恵を働かせ、自我を表現し、必死に生きようとしている。親はそのエネルギーに付き合うことに疲れ果ててしまうかもしれない。
しかし、これこそが、今、若者たちに社会が求めていることなのではないだろうか。こうしたものは大人になってから身に付くものではなく、個々に持っている才能ともいえる。そうしたその子どもたちの可能性をどう引き出し、育むことができるのか。
親だけ、保育所だけでは限界がある。
地域の理解と協力、そして子ども社会の問題をたくさんの人に理解してもらい、知ってもらうことが今もっとも求められているのではないだろうか。
震災後、テレビやラジオ、ネットで被災地のことを知るたびに「私たちに何ができるんだろうか?」と悩んでいた自分自身がいた。募金をしても、国はどんなこ とに使っているのか見えない憤りを感じてしまうことも多かった。国は復興支援として多額の予算を投じているにもかかわらず、依然復興は進まないという。そ して「もしココで大地震が起きたとしたら、私たちも同じ苦しみにさいなまれ、前の見えない復興に取り組むことになるのか?」という疑問がわいてこずにはい られなかった。今、自分たちにできることは・・・ 真実を知り、行政にすべて任せるのではなく、自分たちで知恵を振り絞り、未来を見据えることなのではな いだろうか。
≪第1部≫※詳しい内容の書かれたブログを見る
福島県郡山市に住む鈴木さん家族からお話を聞きました。
ライフライン(水道・電気・ガス)
郡山市(中通り)は海から遠い(約80㎞)こともあり、津波の被害は受けなかったが、電気、水道は止まってしまった。しかし普及は早く、その日の夜には電気が復旧し、水道は次の日に復旧した。ガスはプロパンだったので問題はなかった。(ちなみに松山市も伊方原発から約80㎞のところに位置する)
地震後の子どもたちの様子は
余震がこれだけ来るのかと思うぐらい毎日地震があった。自然の事だから仕方がないとわかっていても、地震が来る前の地鳴りがくると、また来るのかと思ってしまう。子どもたちはトラウマのようになっていて、地震が来ると脅えて泣いてしまう。真ん中の4年生の子はちょっとした地震でも必ず起きてしまう。
原発が爆発した時はどうだったのか?
金曜日(3月11日)に地震が起きて、土日お休みして、月曜日(3月14日)市内の会社の中には休業しているところも多かったが、私は会社に普段通り出勤をした。
1回目の爆発の時(3月12日)は、どうしたらいいのか良く分からなかった。2回目の爆発(3月14日夜11時ごろ)をテレビの報道で知って、これはまずいと思った。それで妻を起こし、妻の実家がある横浜に避難することにした。しかし、ガソリンスタンドは相変わらず並んでいるし、高速道路は通行止め。どうしたらいいか悩んだが、翌日なんとかガソリンも満タンにすることができたので、栃木の那須塩原まで車で行き、そこからは新幹線に乗ることにした。新幹線も止まっているかもしれないという情報があったり、途中でガソリンがなくなってしまう心配もあり、どこに逃げることが良いのか究極の選択だった。娘たちは福島に残してきた祖父・祖母が死んでしまうのではないかと心配しながら乗っていた。
そしてようやく横浜に着くと、誰もマスクを付けていないことに驚いた。福島では放射能から身を守るために、みんなマスクを着けていたが、横浜ではだれも付けていなかった。
情報源は?
地震が起きた当時から、一番の情報源はラジオ(FM福島,、ラジオ福島)だった。テレビも情報を流していたが、一番ラジオを必死で聞いていた。天気予報も、とても気になるので毎日聞いていた。福島の天気予報では今でも今日の天気と一緒に、放射線量も伝えている。
それから地震直後は、やっぱり携帯電話はつながりにくい。固定電話がいいが、一番繋がるのは公衆電話。テレカを常備していると、いざという時安心。
後から聞いた話だと、通行止めだった高速道路も避難すると言えば乗せてもらえたらしい。しかしその情報が当時はなかった。情報が本当に足りなかったと思う。それとも情報がたくさんの人に流れるとパニックになるから流さなかったのかもしれないが。
行政の支援は?
なかった。最初に連絡をくれたのは地震保険に入っていた保険屋さんだった。なので家の修理とかは助かった。
行政の支援は郡山の場合は全くなかったんじゃないかと思う。地震が起きてすぐ郡山の市長が逃げてしまったことも原因かもしれない。陣頭指揮を執るはずの市長が不在というのは良くなかったように思う。それから水道が完全にストップしているところとかは支援が入っていたが、ライフラインに異常なかったから支援がなかったのかもしれない。
除染は?
幼稚園や小学校の除染は保護者が頑張っていた。市が除染に来たのは今年(平成25年)に入ってから。2年近く全く来ていない。おそらく、原発から近い場所から除染しているので郡山に来るのが2年かかったのではないかと思う。
必要だったものは?
とりあえず家にあるお金で必要なものを買った。銀行も閉まっていてお金が下せなかった。とにかく1番は食料。スーパーには本当に物がなかった。それからガソリン。だれもが眼の色変えてスタンドで並んでいた。1時間以上待って毎回給油していた。それからすぐ食べられるものがほしかった。加熱せずにすぐ食べられるものがほしかった。
郡山の線量が高いわけ(ホットスポット)
郡山は福島第1原発から80㎞も離れているが、ホットスポットになっているので線量が高かった。原因としては15日朝に北風だったのが、日中、東風から南東風に変わって、風で阿武隈高地を越えた放射性物質を含む空気は阿武隈高地と奥羽山脈の間に挟まれた郡山の「中通り」にたまるような形になり、その後雨が降って、放射能物質が降下して地面に沈着したためと考えられる。
郡山市の幼稚園の子どもたちの様子は?
現在は、年小から年長まで毎日、日替わりで1週間に20分だけ外遊びをしている。除染もしているが基準が分からなくて不安なので外で遊ばすことができない。
外で遊ばすことに関して親にアンケートを取っているが、外で遊ばせたいという親が多いので、1週間に20分にした。今年の夏のプールは玄関の靴箱の前にビニールプールを置いて行った。これも親へのアンケートによって決めている。屋上にプールがあるが今は利用していない。外遊びに対する考え方は人によって違う。全く気にせずに子ども◇講演会を終えて…
遊び盛りの子どもたちが、外でのびのびと遊べない現実を知り、とてもショックでした。子どもたちは外で仲間と遊ぶことでストレスを発散させます。それができないということがどれほど精神的にダメージを及ぼすことになるのか・・・政府はもう少し考えてほしい。
それから復興支援はまだまだ必要だってことも知りました。
5年先、10年先を見据え、これからも応援していこうと思っています。を外で遊ばせている人もいるし、外遊びをさせることに不安を感じている人も多い。
公園にも線量計が置いてあって、いつもそれを見て、遊ばせるか決めているが、やはり心配なので、できれば外で遊ばせたくはない。
地震の前に防災訓練はあったのか?
普通の学校でやる防災訓練しかなかった。海側の住民は津波が心配で訓練をしていたかもしれないが、郡山ではそこまでの危機感はなかったと思う。
≪第2部≫パネルディスカッション※詳しい内容の書かれたブログを見る
鈴木さんを囲み、子育て支援に携わる松山の人たちや、愛媛で福島の支援をしている人や、福島から避難してきた家族から意見を聞き、今後の愛媛の防災について考えました。
江刺直樹(福ミカン主催者)
重見和典(元愛媛県PTA連合会会長)
角田智恵(「ふくしま・とうおん笑顔の交流プロジェクト」実行委員)
池田美恵(Hug(はぐはぐ)育代表)
新妻秀一(福島県川内町より西条市への避難者)
山之内良文(西条市で自然農園「「愚禿山(ぐとくさん)」経営)
司会 山本良子(NPO松山冒険遊び場代表)