遊び場通信18号 2013.4.10

冒険遊び場の可能性

悲しいことですが、松山市の公園は相変わらず苦情が絶えないようで、松山市公園緑地課はやむなく松山市の全小中学校から子ども達へ、今年の4月「公園の利用」についてのチラシを配布した。

でも、私としてはこれを配っても問題は解決しないと思っている。こうした問題を起こす子どもたちがなぜそのような行動を取ってしまうのかという根本的なところを、行政も地域住民もそして保護者も真剣に考えて次なる対策をおこしていかない限り改善の方向へは進まないように思う。

私が子どもたちと関わってきて思うのは、子どもはみんな本当に素直で、そして悪いことを悪いとほとんどの子が認識している。だから、公園での ボール遊びだって本当はやりたいけど、ボール遊び禁止の看板を見て、みんな真剣に悩んでいたりしている。

そして、悪質なことをする子どもたちというのは、周りに信頼できる大人がいなくて、自分のことを信じてくれる大人がいないから、心が苦しくて反社会的行動(※参照)を起こしてしまうんだと思う。

以前活動している時も反社会的行動をとる子どもというのは必ずいて、私自身もどうしたら良いのか悩んだ時期があった。

でも、その子の周りに地域の関わりが増え、周りに自分のことを少しでも分かってくれる大人が増えてくるようになると、自分のことを分かってくれる大人の前ではあえて悪いことをすることはあっても、その行動をちゃんと叱って、また遊びに来た時はその子の可能性を信じていけば、、少しずつだけど、そうした行動は少なくなってくるという姿を感じさせてもらったことがある。

それでスーパーで会った時は「お~よしこ元気!」って声かけてくれて、「こっちは年上なんだぞ」って心でちょっと思うんだけど、「まぁいいか~前より少し成長してるしな~」て涙なんかにじんじゃったりして・・・ちょっとづつかもしれないけど、いつかきっと立派な青年に成長していくんだと信じてゆっくり関わることがいいんじゃないかと感じている。

地域が良くなるのはゆっくりで、子どもの成長と同じで、寛容な心で守り育てるものなんじゃないかと思う。

不審者という問題も、その公園にそんな大人の関わりが多ければ多いほど近づきづらいのではないだろうか。

松山という街は、こうしたゆっくり地域の子どもと関わってくれる大人が多い地域だとも感じている。

ただ、働き盛りの20代~50代ぐらいの人は毎日の生活が必死でなかなか関われないのが現実なのかもしれない。

それでも、ぜひ自分の地域の周りの子どもたちだけでも関わってみてあげてほしい。

子どもがよちよち歩きの頃から中学生になるぐらいまでの成長を見守ってくると、その成長がなんだか我が子のようにうれしく感じられる。

「これがもしかしたら地域子育て力かも?」て私は今感じさせてもらっている。

公園苦情にしろ、いじめ問題にしろ、モンスターペアレントにしろ、とにかく行政だけでとか、学校だけで考えても問題は解決しないことはあきらかだ。

絆の大切さが叫ばれている今だからこそ、いろいろな人とこうした問題を考える場を作っていく必要があると考えている。

※反社会的行動の発生の背景
反社会的行動の出現は、児童期の注意欠陥・多動性障害と重なって出てくる場合、また青年期の第二反抗期に一時的に親や大人たちからの独立心の表れと相まって一時的に出てくる場合などがあるが、深刻なものはそれが生涯にわたり継続していくケースである。そういうケースの背景としては、特に男性の場合ジェンダー問題、親からの虐待、とりわけネグレクト、貧困、社会的に恵まれない成育環境などがあるといわれる。
評価のアンテナが鋭すぎて 宮内 香苗

今の子どもたちは、日々、様々な評価の荒波にされされて生きているといっても過言ではありません。学校、塾、おけいこ、スポーツクラブそして家庭でさえも・・・。

評価という諸刃の剣の弊害をなくそうと、学校では学習の結果の数字による評価をできるだけなくし、家庭でも、表面的には競争に追い込むような言葉かけはしたくないと考えておられる親御さんも多いようです。

しかし、いったいどこでどうなるのか、子どもたちは小学校に入ると親や教師が思っている以上に、評価に対するアンテナを急速に発達させるのです。

「ボーッ」として過ごすことはなくなります。勉強でもスポーツでも音楽でも絵でも、自分のでき方(成果・結果・勝ち負け等)と友達のでき方を大人よりずっと鋭くとらえています。

それが小学校1年生であっても・・・

お母さんが異常に熱心だったり、担任が特別点数にこだわったりしなくとも、ほとんどの子どもたちがそうなのです。もちろんお母さんの影響でますます拍車がかかることもありますが。
「うちの子は競争心がなくて・・・」と嘆いておられるお母さんもいますが、子どもはあからさまにそんな様子を表さないだけ。

自分の能力をちゃんと相対評価して、いつも心の中には競争の気持ちを持っていることが多いのです。

四年生ぐらいになると、友達の中のランクづけを自然に行うため、かなわない競争やお互いの仲をあらだてる競争を避けたり、友達にコンプレックスを持ち、屈折した形で競争心を表現したりすることもあります。

ただボーッと過ごしたり、無心に遊んだり、何の成果も求められることなく熱中したりする時間を、私たちの社会は子どもからうばい続けてきました。その結果物心ついた頃から子どもたちは自らの鋭いアンテナを発達させずにはおられず、その自らのアンテナで自分自身にむち打っているように見えてなりません。

自分の子どもの「評価のアンテナ」見えてますか?

低学年だって、「できた、できない」をとても気にします。ただ「できない」ことを気にするのではなく、まわりの友達と比べて、自分ができているかどうかに敏感です。友達と比べてできていなかったプリントや教科は、とたんにしゅんと元気がなくなることもあります。まわりの大人が特に点数にこだわっている訳でもないのに…。
世の中のムードをもうキャッチしているとしか言いようがありません。
今まであんまり勉強で目立たなかった友達が、高学年になってテストの点がよくとれることに気づいた時、「○○ちゃんは今まで私らのそばにいたのに、急に遠い人になったみたい」とポツリ。
冗談半分にしても、こんな気持ちを小学生が持っているという事実・・・。
4年生ぐらいになると、教師や親より、まわりの友達の「でき方」を鋭く評価しています。
誰がどのくらい「できるか」大人より分かっている事も…。
学校でそれを感じ、塾でそれを感じ、おけいこでそれを感じ、おうちのちょっとした会話でそれを感じ・・・
「○○ちゃんは、できるからいいね~」誰だってちょっぴり妬ましくもなります。
自分より点数の悪い子がいると「よかった~」といいます。
点数が悪いと「○○ちゃん何点やった?」と自分より点が悪そうなお友達に尋ねています。
また「○○君だけには負けん」と言います。
口に出すだけ陰にこもらず、まだ対応の仕様があるのですが・・・。
評価に左右されない子育て 山本良子

子どもの評価は親の評価?

自分の子どもが有名私立高校に合格するとか、スポーツで全国大会出場などという実績を上げると、親というものは、子ども以上ににうれしいものです。その反面、不登校になったり、学校の成績が悪かったりすると、親は一生懸命我が子を育ててきたにもかかわらず、劣等感にさいなまれることが多くなります。

この親の思いには子ども以上に社会からの評価を気にする親の深層心理が影響しています。
人それぞれ良いところもあれば悪いところもある。各々の個性を重視した子育てが大切なことは分かってきていますが、まだまだある一定の評価基準というものを気にすることなく子育てができるようにはなっていません。

評価を気にすることって悪いこと?

「○○さんより良い成績を取りたい」、とか「○○高校に入りたい」という競争心は人間にとって必要です。

しかし、それが何のためなのか、誰のためなのかというところが明確になっていない競争心は成長の為ではなく単なる自分自身の評価のアンテナを鋭くさせてしまうだけになってしまいます。

評価に左右されない子育て

友人と旅行に行って集合写真を撮影したとき、「この写真の私の顔ヘンだな」「私だけ目をつぶっている!」など、まずチェックするのは自分のことだけで、他人の写真写りはそれほど気にしないという経験ありませんか?

子育てでも同じように、幼稚園のお母さんも地域の人も自分の目の前のことに追われて忙しく、自分のことだけで手一杯。

他人のことを気にしている余裕はないものです。

そして学校での子ども達同士の評価についても、クラスの中でお友達同士がひそひそ話をしていると、「もしかして私のこと悪く言ってるのかも…。」と不安になる子どもたちの話を、最近よく聞きますが、そんな子どもたちの心の安らぎはやはり温かい家庭での何でも話せる雰囲気が重要ではないかと思います。

だからお母さんがすることは評価を気にすることではなく、愛する子どもの為に誠実に子どもの可能性を信じて笑顔の絶えない明るい家庭を作ることではないかと思うのです。

そして、地域にはそうした大人の評価を受けることなく子どもたちがのびのびと遊び、時には「ボーっと」できる居場所が必要ではないかと考えています。

貧しい人のために働き続け、その生涯を愛に捧げたことで知られる
マザーテレサの言葉が、評価の呪縛からあなたの心を解放してくれるかも

人は不合理、非論理、利己的です。
気にすることなく、人を愛しなさい。

あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。
気にすることなく、善を行いなさい。

目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。
気にすることなく、やり遂げなさい。

善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。
気にすることなく善を行い続けなさい。

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。
気にすることなく正直で誠実であり続けなさい。

助けた相手から 恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
気にすることなく助け続けなさい。

あなたの中の最良のものを 世に与え続けなさい。
けり返されるかもしれません。

気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。

気にすることなく、最良のものを与え続けなさい…。